当園がある「神出ぶどう園」(神戸市西区神出町老ノ口)は、いつ、どのようにして出来たのでしょうか。

太平洋戦争が終結した頃、この町の農業形態を見て、農業経済の安定をはかるためには、経営の安定と技術面で改善が必要と考えた岡部敏治氏は、果樹栽培を計画し、栽培果樹に葡萄を選定しました。葡萄は4-8月の雨量で左右されると聞いており、キャンベルスアーリーの産地である岡山を種々同じである点に着目したのです。神出は九十町歩の栽培可能地を有しており、是非ともぶどう栽培を取り入れたいと考え、県農業試験場宝塚分場長 大沢伸三氏の指導により鍬を入れました。 

計画の実施に当たっては共同精神に富む同志を募り、部落会長、農業委員、農協理事の各氏に入ってもらい、以上の他は青年層の四Hクラブ員に参加して貰ったわけであります。この実施の方針を集団栽培の協同化に置くこととして、この陣容でこそ必ず成功すると確信を持っていたのであります。

実施に当たって第一の困難は果樹園用地の交換分合でした。理論としては一応判っておりながら、実際に配分になると利害が伴うために容易に話が進まない有様でしたが、将来の希望と発展のためにという広瀬普及員の熱意に動かされて三町歩を一ヵ所に集めることに成功しました。植穴の位置を測量し、直径六尺、深さ三尺の植穴を掘り始めました。家族全員で全く競争でした。この頃、有機物として植穴へ入れねばならない塵芥のお世話も市当局へ再三交渉して、県工校庭の埋立に予定せられていた塵芥を廻して戴きました。

12月1日に仮植していた「甲州」の苗木を普及員の指導を受け、一斉に植付けを終わって一同ほっと一息ついたのが3月4日、その後若芽の萌え出るまで、どのように不安が且つ待ち遠しかったことか。やがて4月に入って関係者は毎日のように苗木を見廻るのでしたが、若芽の出る徴候が一向見受けられないので、漸次不安な気持ちにかられました。その後16人の栽培者が入り変わり立ち変わり巡視しても発芽が見られないので、ここに始めて失敗と判り私達は奈落の底に突き落とされたような落胆と悲哀を感じたのです。これからの活動にはどのようにして信頼を繋ぐべきかということを考え、まことに相済まない気持ちのみで一杯で悩み抜いた幾日かが続いたのです。

このままで放置することも出来ませんので、発芽していない原因について宝塚の分場長 大沢伸三先生にご来駕を願い検討して戴いたところ、苗木輸送中貨車の中で蒸せたため、芽の生理活動部面を殺してしまったためと判定されたのです。 大沢先生は「25年果樹指導をして来たが、葡萄の芽が出ないということは神出が初めてだ」と述懐されていました。理由がどうであろうと、現実に芽が出ていないことこそ、一途に痛恨を感じていたのです。どうしてこの16人の栽培者に話すことが出来よう。穴があったら入りたい気持ちで一杯でした。同じ部落にいて、毎日顔を逢す苦痛こそ筆にも言葉にも表現できません。

翌年の植付期が来て、今度は作り易い品種「デラウェア」に変更し、12月31日、再び全員一斉に植付けを行った。翌年2月15日、岡山果樹試験場長 大崎 守先生の現地診断の機会が得られた。その結果、またまた意外な障害にぶつかった。大崎先生は現場を見られて、「この埴土では甲州やデラウェアに適当ではない、マスカット・べーリーAなら良い」とのこと。又かという非難の声が随所に聞かれたのでした。

農政局や農協からもう一度頑張って呉れぬかと激励され、勇気を出して栽培者の説得に努めた。幸い皆心よく理解を寄せられ、それから駄馬に鞭打つ思いで又々植付け準備をしました。既に2月半ばを過ぎており、良い苗木があろう筈もない、細い悪い苗木だったが仕方なく不安な中に「マスカット・ベーリーA」の植付を終った。

幸いその大部分は発芽して順調に成育しました。芽が出ると栽培者一同の気持ちも一変して、毎日誰かが果樹園に出て手入れをしています。この姿は雄々しく立ち上がった若人の姿に似ています。

(岡部敏治氏 「共同果樹園を創設するまで」より抜粋)